blog

blog article

アンドラーシュ・シフ 2024 いずみホール

2024年年末に大阪のいずみホールで行われた世界的ピアニスト、アンドラーシュ・シフのコンサートに行ってきました。今回はその感想などを書いてみたいと思います。

とは言っても、ここは運動科学・ゆる体操・達人調整のサイトなので、素人の音楽評論的な内容ではなくて、できるだけ身体意識をはじめとした運動科学の方面からの知識を使って書ければよいと思っています。

さて、近年のシフのコンサートにおいては、演奏する曲目はシフが当日決める事になっています。

なのでこちらは直前まで曲目がわかりません。そのワクワク感はほかのコンサートでは味わえないのですが、とりあえず当日演奏された曲目を載せておきます。

  • J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988から アリア
  •       フランス組曲第5番 ト長調 BWV816
  • モーツァルト:アイネ・クライネ・ジーグ ト長調 K.574
  •        幻想曲 ハ短調 K.475
  • ハイドン:アンダンテと変奏曲 ヘ短調 Hob.XVII:6
  • ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第30番 ホ長調 op.109
  • シューベルト:ピアノ・ソナタ第18番 ト長調 D894 
  • (アンコール)
  • J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲第1巻から 前奏曲とフーガ BWV846
  • ショパン:マズルカ イ短調 op.17-4
  • ショパン:マズルカ ハ長調 op.24-2
  • シューマン:アラベスク ハ長調 op.18
  • モーツァルト:ピアノ・ソナタ第16(15)番 ハ長調 K.545から 第1楽章
  • J.S.バッハ:イタリア協奏曲 ヘ長調 BWV971から 第1楽章
  • ブラームス:インテルメッツォ 変ホ長調 op.117-1
  • ※参考までにspotifyからシフの演奏のリンクを幾つか貼っておきますが、私が当日ライブで聴いた演奏とはまた印象が異なります。

先ほど述べたように、ここは音楽について書くブログではないので、出来るだけ演奏家の身体から奏でられる「音」についての観点から書いてみたいと思います。
しかし、つまるところ音楽とはその人の身体運動以外からは表現されないものなので、結局は音や演奏解釈もすべて身体運動の結果と私は考えています。

さて、そのような観点から見てみると1曲目のゴルトベルグ変奏曲の最初の一音からまず楽器と身体がつながっているのがわかります。

鍵盤音楽の最高峰ともいえるゴルトベルク変奏曲から「アリア

超一流の演奏家の奏でる音には常に芯があります。別の言い方をすれば音にブレが無いのです。
もちろんアンドラーシュ・シフの演奏にも常に音に芯があります。
音の芯ももちろん身体運動、さらにはそれを根本的に支える身体意識から生まれます。
これを具体的な現象として説明すると、要するに鍵盤、さらにはその奥にあるピアノの弦の中心をどれぐらいの精度で捉える事が出来るか、と言うことになります。

では芯を捉えるという運動がどのように行われるのかというと、これは自分に中心がないと、道具の中心などは分からない、ということです。身体の中心といえば軸(=センター)です。ですから鍵盤や弦の中心を捉える能力は、自分の軸が基準となります。
言い換えれば自分の軸の能力以上に弦の中心を捉える事は原理的には出来ません。軸の能力とは立ったりすわったり、さらには移動したりするときに、地球の中心(=地芯)を感知してそれに乗り続け、身体をコントロールする能力のことともいえます。その精度が高いほど軸も優れたものになります。
ですから、軸が優れている人物は潜在的に物体の中心を捉える能力も高いという事になります。
しかし演奏家が演奏中にいちいち軸を意識していては演奏どころではなくなってしまうので、普段の練習から自分が出す音と、自分の運動としての演奏を常にフィードバック、フィードフォワードしながらやっていないと、本番でとてもこういう音はでません。
良い運動(この場合は演奏)とはこの無限の連鎖以外からは生まれえないものなのです。

特に「アリア」は音数が少ないのでそういったもっとも根本的な能力が問われる曲だと思います。

ちなみに今話をしているのは音楽の「表現力」の話ではありません。それ以前の、単純に物理的な運動のレベルの話で、その人や作曲家がどういう音を志向しているのとは別の話です。

身体意識の3要素の点から言うと、ストラクチャーとモビリティの話になります。クオリティが変われば、同じストラクチャーやモビリティでも音は全く変わる(もちろんストラクチャーとモビリティが変わっても全く音は変わります)のですが、仮にここでは、ピアノのタッチに関してストラクチャーとモビリティを取り出した運動を「鍵盤に指を落とす」という言葉で定義すると、シフの場合、その「鍵盤に指を落とす」という運動そのものが格段に優れているということなのです。

シフの「鍵盤に指を落とす」という運動、これに関しては他のプロのコンサートピアニストと比較しても最高レベルだと私は思っています。
仮にアンドラーシュ・シフがあまり好きではない、という方でもここは同意していただけるのではないでしょうか?

要するに好みの問題などではなく、世界でもトップクラスの演奏家はまずこの部分のレベルが全く違うのです。
ですから私は「鍵盤に指を落とす」という運動のレベルが一定以上の人でないと聴く気がなくなってしまいます。もっとも「鍵盤に指を落とす」という運動は指だけでなく全身の身体意識によって支えられている訳ですから、ここでは本質力に支えられた具体力、といったニュアンスと考えていただければ良いと思います。

「本質力」について知りたい方は・・・

また、この人のアリアを聴いていると旋律と内声部と低音が別の人物が演奏しているかのように別々に聞こえてきます。バッハではよくいわれることですが、特にフーガなどは主題が高音・中音・低音を移動するのでその都度その主題が聴衆に聞こえるように響かせなければ曲になりません。
私はピアノが弾けないし、音楽の専門的教育も受けていないので、そういう時に音大などで教える一般的で具体的なテクニックがあるのかは分かりません。
ゴルトベルグ変奏曲のアリアはフーガではありませんが、内声部が移動していく部分(例えば7小節目)などが主題とベースラインと別々に響くと大変美しく聞こえます。

goldberg variations aria
ゴルトベルグ変奏曲から「アリア」楽譜から判断できるように3声で書かれている

今回まさにそのような演奏が聴けたので、私はもう最初1の音からバッハ、さらにはシフの世界に引き込まれてしまったのです。

この曲は楽譜としては簡単ですから、ある程度ピアノを習った人なら弾けるのでしょう。しかし、シフのレベルで弾ける人物はおそらく世界に数人しかいないのでは?と思っています。

さらにじっくり聴いてみると、驚いたことがありました。その別々に鳴っている各声部が高音は前、中音は少し後ろ、低音はさらに後ろから聞こえてくるのです。

もちろん高音・中音・低音と言ってもピアノではそれぞれ鍵盤の位置が違うので、すべて同じところから聞こえてくる訳ではありません。しかし前後の位置がここまではっきりと違って聞こえるというのは今まで経験がありません。
それがそれぞれの声部の音を際立たせているので、ゴルトベルグ変奏曲のアリアという曲の素晴らしさをさらに引き立てているのです。

先ほど述べたようにピアノという楽器の性質上、高音は聴衆から見て鍵盤が前にあるし、低音は後ろに配置されています。
しかしクラシックのホールともなるとある程度残響があるので、そこまでハッキリと分解して聴こえないものです。

ちなみに私の座席はちょうど前後方向では真ん中より少し前、左右方向ではほぼ真ん中でした。

いずみホール
当日の座席から撮った写真。自分の目線がちょうどピアノの高さだった

いずみホールは座席数820人程度の中規模ホールで、大ホールに比べてかなり近い位置で聴けたと思うのですが、今まででも今回ぐらいある程度ステージから離れた位置だと低音と高音が前後に別れて聴こえる、ということは無かったと思います。

もちろん私は別にも超一流のピアニストの演奏会に行ったことはありますが、少なくともそんなふうに聴こえたことはありません。

最初は自分の思い込みかと思ったのですが、さらに驚いた事に、各音を和音、ハーモニーとして弾いている時はちゃんと同じ場所から一つの音(和音)として聞こえてくるのです。

なので、これは会場の音響の特性ではない事がわかります。

だからもう、これは彼の身体、身体意識がなせる事なのだろうと考えるしかありません。そう思って自分も身体を研ぎ澄まして(20数年も身体意識のトレーニングをしているものにとってはある意味これは習慣ですが!)、どういった身体意識がそういう音響をさせるのか、感じ取ろうとしてみたのですが、やはりそれぞれの指が分離して別々のものとして動いている、という事に尽きると思います。
たとえば、これが三重奏の演奏であれば、それぞれの音は分離して聞こえるはずです。
要するにこのレベルの演奏家になると、まるで別々の人物が弾いている、と感じられるほどにそれぞれの指が分離している、という事なのです(この件については後ほど詳しく書いてみたいと思います)。
さらにシフは「その日の会場と聴衆の状況を見ながら曲を選ぶ」といわれていますので、会場全てが自分の身体と同化した状態になって、どう弾けばどう響くか、という事もわかるのでしょう。

私はシフの大ファンだから、ほぼ毎日彼の演奏を聴きます。しかし今まではiPhoneで聴いても自宅のオーディオシステムで聴いてもこのような聴こえ方をしたことはありませんでした。オーディオでの音楽の再生というものは、再生以前にそういった情報をエンジニアが汲み取ろうとしているかどうかで、そもそもマイクの設置位置が変わってしまうので、音源にその情報が入っていないとそういう響きは情報として録音されないので聞こえてきません。

録音、オーディオに関する話

そういった意味でもライブでのこういった経験は大変貴重でしたし、運動科学を学ぶ者としては、何より人間の可能性という意味で本当に得難い体験だったと思います。

さて、一曲目だけでこれだけ長い文章になってしまうのですから、とにかく自分にとって大変な情報量だったのですが、他にも幾つか全体を通して感じた事があったのでなんとか皆さんにお伝えしたいと思います。

二つ目に驚いた事は作曲家ごとに音の響き、鳴り方を変えていることです。

プロの演奏家や批評家の方がそう聞くと「そんなことは当たり前だ」とおっしゃる方も多いでしょう。

もちろんそのように毎日練習をされている事ぐらいはただの愛好家の私でも知識としては知っています。しかし、20数年運動科学を学び、毎日音楽を鑑賞する立場から言わせていただきますと、実際には音そのものが身体意識レベルで作曲家に合わせて変化するということはまずありません。
そんなことは現実には非常に困難な事なのです。しかし少なくともその日のシフはそのレベルに入っていました。今回のコンサートほどその違いをハッキリ感じたことはありませんでした。

それを強烈に感じたのはハイドンの変奏曲が終わってベートーヴェンのソナタの最初の1音がへ鳴った時です。

まずモーツアルトからハイドンが天上的な美しさの演奏で、これだけでもかなりの文章が書けてしまう程なのですが、この調子で書いていくと全体が長くなりすぎるのでそれはそれで置いておきましょう。
とにかくモーツァルトからハイドンも期待通りの名演で自分でも一つ一つの音の美しさに感嘆するほどだったのですが、ベートーヴェンに移った途端、音の響きが変わったのです。

アンドラーシュ・シフが「最も好きな曲」と言っているベートーヴェンのピアノソナタ30番

具体的にいうと音の芯がやや太くなり、音の重心がかなり下がったのです。

一瞬えっ?となって、また自分の思い込みではないか(←私はかなり思い込みの激しい人間である)と、注意深く聴いてみたのですが、同じ音程の音でもベートーヴェンの方がハイドンよりもやはり音が太く、剛性も増し、重心が下がって(語弊を恐れずに言えば音程が下がったように)聴こえます。

なので、やはり明らかにそのように弾いているとしか考えられません。
身体意識でいうと、センターが少し太くなり、クオリティは剛性と、さらに「重」の身体意識が効いてきているということです。

普通に言えば「解釈」というレベルで音を工夫したりすることはありますし、それはそれで曲の表現としては大変大事な事だと思います。
しかし演奏する曲の作曲家が変わるたびに、音が身体意識レベルで変化する演奏には未だかつて出会ったことがありませんでした。

私はベートーヴェンの音楽はモーツァルトのそれとは違ってあくまで人間の世界のものだと思っています。

だが後期のいくつかの曲は明らかに世俗レベルを遥かに越えて、天上の世界に手が届いているものがあります。このピアノソナタ30番もそういう曲です。

しかしシフのその時の音から感じられる印象は、センターの太さと重性の身体意識が適度に効く事によってあくまでもベートーヴェンという人間が人間世界にいるという印象を強く感じさせてくれたのです。ただしストラクチャーとしては高いところまでセンターが抜けているので、人間世界の喧騒にまみれているような音ではもちろんありません。

クラシック音楽ファンの間では「3つの後期ソナタ」といわれている30番から32番の3曲に私は若い頃から魅せられていました。以前は知らないピアニストでベートーヴェンのこの3曲のCDを見つけると必ず購入していたものです。
自分にとってはこの3曲はゴルトベルグ変奏曲と並んであらゆる曲のなかでも別格で、この曲やゴルトベルグ変奏曲対してピアニストがどう接しているかで、その人の私の評価が決まります。

人間世界にいながら天上世界に届いている、私はベートーヴェンの後期の作品群をそのように感じていましたし、今までも周囲に対してそのように発言してきたのですが、本当の意味でそれを感じさせてくれる演奏には音源でも生でも出会ったことがありませんでした。
今は知らない演奏家でもサブスクリプションの音源でいくらでも試聴する事ができる時代だからたくさんの演奏家の演奏を聴くことができます。
ある程度天上世界にいる、という演奏はあるのです。稀ではありますが、天性の気がシャワーのように降りてくるのを感じる演奏というのはあります。

ソロのバセットホルンがエリック・ホープリッチ、指揮はフランス・ブリュッヘンのモーツァルト「クラリネット協奏曲」

それは本当にすごいことなのですが、人間世界から天上世界に手が届いた、という感覚を味わわせてくれる演奏はありません。

その日のシフの演奏はまさにそれを感じさせてくれた演奏でした。
やはりベートーヴェンは人間だったのですね。

さて、後半のシューベルトのソナタなのですが、やはり音の重心はモーツァルトの時のように高くない。かといってベートーヴェンほどストラクチャーが太くしっかりしているわけでもなく、ベートーヴェンよりも少し浮遊感があって、繊細で、それでいて古典派的な節度も残っている名曲、だと私は思っています。

この録音ではシューベルトの時代に使われていたピアノを使用している

ロマン派の曲は一般的に縦横のストラクチャーが古典派ほどしっかりはしていません。そして名曲の中には漂うような浮遊感があるような曲が多いと思います。シューベルトの18番のソナタはセンター系のストラクチャーはもちろん必要ですが、古典派の作曲家ほど音に明確なストラクチャーがあってはらしく無くなってしまいます。

今回の選曲はバロックのバッハに始まって、ロマン派前期のシューベルトの大曲で終わるというものでしたが、時代を下っていく、という意味合いがありながらも、明確なセンターのストラクチャーを持つバロックから古典派の3人と、そこまでのストラクチャーは持たないが、柔らかいクオリティを持つロマン派のシューベルトという身体意識的な弾き分け(もちろんシフは身体意識という概念も言葉も知らないでしょうが)、という面があったと思います。

今回のコンサートでシフは見事にそれをやりきっていたのではないか、と私は思います。

間違えて欲しくは無いのですが、これは作曲家や曲の「解釈」の問題ではありません。
ここでは「解釈」は具体力のレベルと考えてもらっていいと思います。今私が問題にしているのは「本質力」である身体意識レベルの話なので、どういうリズムで、どういう強弱でとか、さらにはアーティキュレーション(芸術的な表現)の話とも全く異なります。

解釈ではないので演奏家が作曲家や曲(の身体意識)をどう捉えているかは最初の一音でほぼわかります。

ベートーヴェンの段階で、その日のシフが身体意識レベルでの演奏になっている事をハッキリと感じたので、シューベルトの最初の一音が鳴った時、明らかにベートーヴェンとは違う音で鳴っている事が感じられたのです。
最初の一音で、シフがシューベルトという天才をどう捉えているかはもうわかるのです。
いくらシューベルトのこの曲はこういう曲だから、ここはこうで、次はこうで・・・、と頑張って演奏しても、それは所詮緊張性意識集中でしかありませんから、一曲を通じてやり切るのは不可能です。
その点身体意識なら、緩解性意識集中を前提として成り立つものですから、その状態になってしまえば良いのです。あとはプロなら身体意識が身体を動かしてそのような音を自然に出してくれます。
気持ちを込めて、等とよく言われますが、そのように身体が動いてくれないとそのような音は出ません。
私は身体意識を直接感じ取る能力はもちろんないし、図面で表す事などもちろんできません。だから、師匠である高岡先生が発表していない身体意識に関しては明確に説明することが出来ません。そこがなんとももどかしいのですが、その日の演奏は作曲家ごとに明らかに身体意識レベルで音そのものが違ったのです。

いくらプロでも曲によって身体意識レベルでの変化をつけることは難しいと思います。ベートーヴェンとシューベルトでは同じ音でも鳴らし方が変わってこないと本当の意味でその作曲家を表現している事にはなりません。しかし本当に和音の質・響きが変わってしまう、などと言うことはトップレベルのプロでもなかなか無い事なのだと思います。
もちろんアンドラーシュ・シフという人の個性が消えてしまうことはなく、やはりシフはシフの音なのですが、それでも作曲家が変わるたびに音そのものが変わるということは実際に体験してみると本当に感動的です。

こうなるとアンコールでシューマンやブラームスを弾きますと言われた時、今日のシフならもう絶対にこういう音が鳴るはずだということは私でも予測できます。実際にアラベスクの最初の一音から、もうシューマンの音が出ているのです。
具体的にいうとシューマンは、例えばシューベルトより中域に中心があり、それがさらに柔らかく、ストラクチャーよりもクオリティで聴かせる作曲家です。だから中域の音が柔らかく一体となって響いてくる感じが欲しいのですね。

そして実際にそういう音で「アラベスク」が響いてくるのです。

シューマンを聴いた後、もう一度アンコールでバッハとモーツアルトを聴くことができたのですが、全くシューマンに引きずられず、ちゃんとバッハとモーツァルトの音になっているのだから本当に驚いてしまいますね。

だから最後にブラームスのインテルメッツォがはじまるとき、シューマン的な美しい和音の響きに加えてさらに重心がさがり、低域が響いてくるのだろうな、と思っていたら、まさしく重厚な和音が響いてきた時には本当に感動したものです。

なぜこの様な事ができるのか。できるだけ演奏している姿をみて身体意識、身体操作的にわかる事がないか、とは思ったのですが、正直言って自分のいまの能力では姿からはほとんど読み取る事ができませんでした。

一つ言えることは、前腕のゆるみ方が特徴的で、おそらく前腕のセンターが5本の指と繋がっていて、しかもそれが身体意識的に分離しているように見えた事です。

これはハイドンの変奏曲を聴いていて思った事なのですが、早いパッセージを弾く特に音に粒が立っていて、綺麗に分離して聴こえるのです。そしてその分離の仕方が尋常ではないのですね。そう思いながら何気なく演奏している姿を見ていると、前腕が分離しているように見えたのです。実際は前腕は身体の構造としては分離していないし、骨も2本しかないのですが、前腕が指の延長としてというより、指が5つに分かれた前腕の延長として使えている。見た目には前腕が独特の”うねり方”をしているように見えるのですが、ああいった”うねり方”は前腕が割れていないとおそらく出来ない。
達人調整には指にセンターを通すことで前腕から体幹に5本の軸を通すことを目的とした術技があります。自分もある程度トレーニングをしてきているので、本当にできる様になった時はこんな感じだろう、という予測ぐらいはできます。だから、シフの腕使いと音からそれを感じるのです。

達人調整についてもう少し詳しく知りたい方は

各指が前腕から分離していると、指が鍵盤に向かって落下するときに意識としては垂直に落ちることができます。各指がピアノの弦の芯を捉えられるし、おそらく10人の演奏家が各音を弾いているような状況を作れるから、音が分離して聴こえるのもあたりまえ、という事になります。

原理的には分離する事ができれば混ぜる事もできるから(逆に混ざってしまう事しか出来ないと分離は不可能です)、色々な和音の響かせ方もできるという事になります

最後にショパンについて述べておきます。

今回の演奏会でショパンだけは少し違う感じがしました。シフのショパンの音はショパンとしては下軸がありすぎるのです。もちろん音は美しいし、良い演奏だったと思いますが、やはりこんなに脚がしっかりしている(それでもバッハの演奏とかと比べるとはるかに弱いのですが)と、ショパンの儚さは表現できていないと思いました。
シフは世間では一般的にバッハやベートーヴェンの評価が特に高いですが、コンクール以来、ショパンをほとんど録音してこなかったのは、私としてはやはり下半身のセンター(=下軸)を拠り所にしている(バッハやベートーヴェンは下軸が弱いと曲にならない)演奏家はショパンは避ける傾向があるからだろうと思っていたのです。
これについては後日色々調べてみるとインタビューで面白い発言をしていたことがわかりましたので少しご紹介しておきましょう。
インタビューアーがショパンは近年録音していませんね、という質問に対して、シフは

「ショパンを演奏するにはプレイエルが必須条件です」

と言っているのです。

ショパンが使用したプレイエルのピアノ
ショパンが使用したプレイエル

プレイエルとはショパンが使用していた楽器ですが、語弊を恐れずに言えばプレイエルは現代のピアノに比べて音が軽い。シフも現代のピアノは音が重厚すぎて、ショパンの繊細な世界を表現できないとも言っていました。

ということは、(こんなことを言うのは大変に恐縮なのですが)やはりシフは自分の身体の事が潜在的にわかっていて、ショパンを演奏する時に必要なほど下軸を弱く出来ないということを感じているのではないか?その対策として、現代ピアノよりも音が軽めにでるプレイエルを必要としているのではないか、と思った次第です。

最後に現代の音楽や芸術に対する社会の傾向について自分の意見を言いっておきたいと思います。
最近の音楽を聴く時の媒体は、音楽配信サービスが圧倒的に主流であり、CDなどの古いメディアは完全に取って代わられてしまいました。わたしももちろん音楽配信サービスは複数使用していますが、あまりにも便利なため、どうしても一つ一つの曲が結果的に「消費」されている感じは否めません。
つまり曲や作曲家、演奏家に対する「敬意」が相対的に低下しているのです。もちろんBGM的に聴く場合など圧倒的に配信サービスが便利だし、自分の好みの曲をプレイリストとして簡単に編集できる楽しみもあります。
しかし本当に良い演奏に関しては、私はアルバムを必ず購入する事にしています。それが作品と作曲家に対する敬意だと思っているからです。
これはいわゆる「推し活」とは全く違います。好きなアーティストを応援する意味ももちろんありますが、最大の理由は敬意です。
1枚のアルバムをじっくり聴く、その行為で作曲家や演奏家の身体意識も感じる事ができるし、自分の身体意識を高めることもできます。
ライブはいわばそれ以上の体験です。もちろん演奏家にも調子の良い悪いがあるから、常に良い演奏を聴けるかどうかはわかりません。本当に自分が芯から感動できるような演奏は一生に数回でしょう。
そういう意味でもあまりにも身体性が希薄になっている現代で、今回シフの素晴らしいライブに出会えたことは本当に幸せな体験でした。
演奏家にはもちろん、今回のツアーに関わったすべての関係者に敬意と謝意を評したいと思います。

ここで紹介した曲については、いくつかシフの演奏をspotifyからのリンクで貼っているので、ある程度参考にはなると思います。ただし、今回のライブでの印象は音源からは感じられない部分も多いのでその点には注意して聴いていただければ、と思います。

ご自宅でゆる体操を学びたい方へ(毎月5日配信)

中田ひろこがTwitterでゆる体操や体のことについて呟いていますので、よかったらフォローしてくださいね。
中田ひろこ@ゆる体操

«

タグ

関連記事――中田了平のblog

column & blog おすすめ記事

扁平足・開帳足・外反母趾・強剛母趾の対策

皆さんこんにちは。ゆるポータル神戸、達人調整師の中田了平です。 さて、世の中には様々な足の症状に悩まされている方々も多いと思います。 タイトルの病名はもちろんですが、特に病名が付かなくても足が疲れやすいという方まで含むと、ほとんどの人がなんらかの足回りの症状…
7か月前中田了平ゆる体操記事

腰痛のためのゆる体操のやり方10分

この記事はこういう人のために書きました。 つらい腰痛で苦しんでいる人 スポーツで腰に問題を抱えている人 治療師、トレーナーを目指している人 腰痛は実につらく、生活の質を大巾に下げてしまいます。この記事にあげるいくつかの体操を、ご自分の…
4年前中田ひろこコラム記事ゆる体操

腰痛に悩む全ての人へ 私の腰痛改善記

以前にも私のブログ「ゆる体操を続けて私に起こった8つの効果」で書きましたが、私は20代の頃かなりつらい腰痛で苦しみました。今日はどのように悪化していってどうやってそこから復活したかを書いてみたいと思います。 この記事はこういう方のために書きました。 つらい腰…
4年前中田了平ゆる体操記事

家トレも寝ながらできる 10分間ゆる体操【永久保存版】

この記事はこういう人のために書きました。あなたはどれに当てはまるでしょうか?(複数に当てはまっても大丈夫です) 筋トレなどよりも、もっと楽ちんな家トレをしたい人ゴロゴロしながらダラ〜ッとやれてしかも効果的な家トレをしたい人運動が大嫌いな人汗をかくのがイヤな人家トレをやりた…
4年前中田ひろこゆる体操記事

「ゆるむ」とは

当ウェブサイトの「コラム」ページでは、ゆるプラクティスについての大切で基本的なことをお伝えしていきます。月に1回から2回程度、新しいコラムを掲載していく予定です。 コラム第一回は、「ゆるむ」ということについてです。 「ゆるむ」のは良くないこと? 皆さんは、「ゆ…
5年前中田ひろこゆる体操記事