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名盤・名曲探訪 武満徹 「弦楽のためのレクイエム」
みなさんこんにちは。ゆるポータル神戸、達人調整師・ゆる体操初級指導員の中田了平です。
私は以前Facebookで音楽の感想等の文章を時折書いていたのですが、訳あってFacebookアカウントを削除をしたので、そこで書いていたテーマの文章をこちらのブログでも独断と偏見で書いていきたいと思います。
このサイトは運動科学、ゆる体操、身体の使い方などを扱うサイトですので、純粋に音楽の事だけでなくそれに沿った内容にしていきたいと思っています。
以下はFacebookで発表したエッセイを当サイトのテーマに合わせて大幅に書き直した文章です。
さて、最初にどの曲について書こうかと思いましたが、色々な曲がもやもやと頭を巡っているうちに何故かくっきりと輪郭が浮かんだように感じたのが武満徹の「弦楽のためのレクイエム」です。
ちょうど本日2/20は武満の命日なので、それに合わせて公開してみようと思った次第です。
この曲は武満の初期の傑作として知られています。また日本人による「レクイエム」という性格のためか東日本大地震の追悼として世界中で演奏されたという曲でもあります。
また、初演時は国内での評価は芳しくなかったのですが、ストラヴィンスキーが
「厳しい曲」と評価したのが
「絶賛した」
という風に(誤って)広まり、ストラヴィンスキーのこの曲の評価によって国内での武満の評価が確定したという経緯があります。
曲の歴史を辿るとそのような感じなのですが、ストラヴィンスキーが「厳しさ」と評価したものは確かにこの曲から感じられます。
ではストラヴィンスキーが評した「厳しさ」とはいったい何のことなのでしょうか?
ストラヴィンスキーは「厳しい」と評したこの曲ですが、私がこの曲に限らず武満からまず感じるものは、もう少し人間が持っている原始的なリズムとか空気感なのです。
それは原始的と言ってもいいでしょうし、根源的と言ってもいいかもしれません。おそらく武満は自身の身体が察知できる空間がかなり外側まで広がっていて、この曲を聴くと自然の中の、普通の人が「静寂」として感じられる空間も彼の身体の一部として捉えられていたのだと感じます。
この曲は無調ではありませんが調性が曖昧です。古典的な書式で書かれている部分もありますが、かなり曖昧な部分もあります。
その「曖昧な部分」に関しては各パートの音を旋律やオブリガートと受け取っても良いし、メロディに対する和声と受け取っても良いと思います。
その様に聞いてみると、その曖昧さゆえに、なにか深い森の中でじっとしている時のように風の音や鳥の声、木々のざわめきが聞こえてくるような気がします。さらに自分の呼吸音や心音も聞こえてきます。
この曲は「レクイエム」となっていますが、私はこの曲を聴くと晩秋の静かな森の中に一人いるような感じを覚えるのです。

それらはそもそも西洋音楽で言うところの調性もリズムもありませんが、武満はそういった外界の様々なものを自分の身体の一部として受け取っていたに違いありません。
武満の場合、そういった外界を彼の内的世界で捉えて、それをどのように音にするか、しかも西洋のクラシック音楽の形式を使って表現するかという事なのでしょうけど、武満はメシアンなどフランスの近現代音楽に影響を受けていたので、それを考えると確かに(ベースとなるものは違うのかもしれませんが)メシアンが表現しようとしたもの、特に和声については近い感覚を武満からは感じることができます。
それはメシアンやそれ以前のフランス人作曲家達が、自分の中に鳴り響いていた不定形のまるでさざなみのような状態の「音」をクラシック音楽の伝統の上に表現しようとした一連の試みと同じ流れなのかもしれません。
これは現代物理学で言う「観測」と同じ事なのかもしれませんね。
あるいはソシュールのいう「パロール」でしょうか?
現代物理学では事象は観測するまではもやのようなもので、はっきりとした形をもちません。
同じように誰しも自分の内部に表現出来ない「何か」があるのでしょうけど、それはモヤのようなもので、明確な形のあるものではありません。
そこに「観測」という行為が入った瞬間モヤは形となって現れます。
ただそれをどう「観測」するかは人間の場合物理学と違って基本的に任意でしかも恣意的です。
恣意的ですが身体意識の影響はもちろん受けます。むしろ優秀な人間ほど形式や言語の支配から逃れて身体意識の影響を受けるのです。
ここで身体意識について、詳しい知識が無い方のために少しご説明します。
人間の運動は実際の運動より前に必ず意識レベルで運動がおこります。それが顕在的に「何かをしよう」という意志を持って行われるものもあれば、無意識・顕在意識下で行われるものもあります。
そういった顕在意識でない、特に潜在意識には身体の体性感覚を中心に出来上がっている系があって、それを身体意識と言います。
身体意識には形状(=ストラクチャー)、運動性(=モビリティ)、質性(=クオリティ)という3つの要素があり、同じ身体意識のファクターでも、3つの要素がそれぞれ異なると、発現の仕方はまた異なったものになります。
例えばその人に軸(=センター)が強いと、潜在意識下でその人の感性はセンターによってコントロールされますからその「モヤのようなもの」はセンターの強いものとして表現されるはずです。センターでも形状(=ストラクチャー)が強いと、より対象を線や面で捉えようとするでしょうから、例えば様々な現象を個々に対象化してパートの関連性と独立性の高い音楽になるかもしれません。
センターでも運動性(=モビリティ)が強いとより(乗っていく)リズムの強い音楽になるかもしれません。
もちろんクオリティもモビリティやストラクチャーと同じように作品に影響を与えます。
私は、武満は繊細でありながらも強いセンターの持ち主だと思っていますが、弦楽のためのレクイエムは各パートが独立を保ちながら、しかも相対的にある種の運動性を持って聴衆に迫ってくるような印象があります。これにはセンターのストラクチャーの強さを感じます。
迫ってくる感じには、”知・情・意”のうち”情”を司る身体意識である中丹田の強さも感じますね。そして、基本的に武満は”知”を司る上丹田が強いと思います。
武満は上丹田とセンターが強い、また芸術家として当然のことながら秘めた情熱もあります。ですから伝統的にセンターと上丹田と中丹田が特徴的なフランスの音楽に惹かれた、その影響を受けたのではないかと思っています。
しかし影響を受けたといっても、武満の天才性はフランスの現代音楽という形式を借りて、その自分の中にあるモヤのようなものをただ「観測」したという事により、それまでのクラシック音楽の常識を結果的に破ったと言えるところにあるような気がします。
さて、ここまでつらつらと話してきましたが、ストラヴィンスキーのいう「厳しさ」とはいったい何でしょうか?
この「弦楽のためのレクイエム」は武満にとっては「あまりに情緒的であまりに個人的な思いに押し流されて」書いた曲だそうです。
とはいっても、「個人的な思い」が彼の身体意識であるとすれば、つじつまが合います。
彼の内的世界を自らのセンターや上丹田といった身体意識に命じられるがままに妥協無く「観測」し、表現したというところが、ストラヴィンスキーの言う
「厳しさ」
という事のように思うのですがいかがでしょうか。
さて音源ですがあまり選択肢がない中で、ヤルヴィ指揮・N響はさすがの名演です。私はここ20年でN響のレベルが格段にあがり、世界レベルの演奏をするようになってきたと感じています。
特に近年オーケストラとしてのセンターが発達して透き通った感じが出てたように思うのですが、この演奏はまさにそれを感じさせるものとなっています。各パートが分離したり融合したりする感じや、弦楽器のうねりなども、一流オケのそれを感じさせます。武満の録音は演奏回数が限られるせいもあってどうしても良いものがなく、コンサート・録音で積極的に武満を取り上げ、世界に武満の存在を知らしめる役割を果たした小澤征爾なども、実は私にとってはパッとしない感じがあったのですが、このパーヴォ・ヤルヴィ、N響は良い演奏です。
よくぞ録音してくれました!
さてこのシリーズでは紹介した音源の評価も独断と偏見でしてみたいと思います。あくまで独断と偏見ですので参考程度に見てもらえたらと思います。
演奏7録音7
- 演奏基準点
- 1〜6 特筆すべき点はないが、個人的に取り上げておきたい演奏も含む
- 7 高く評価されるべき演奏 または演奏以外の部分も含めてエポックメイキングな演奏
- 8 名演 当代随一の演奏
- 9 優れた身体意識に支えられた超名演
- 10 時代を超えて受け継がれていくべき超絶的名演 身体意識・曲の解釈全てがパーフェクト
- 録音
- 1〜6 特筆すべき点のない録音
- 7 優秀録音
- 8 最高ランクの録音
- 9 エンジニアの身体意識が感じられる魂の録音
- 10 音の良し悪しを超えて、エンジニアの魂が演奏者の魂と共鳴する超絶録音