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名盤・名曲探訪 ムラヴィンスキーの「チャイコフスキー交響曲第5番」
私は音楽鑑賞が趣味です。通勤が長いこともあっておそらく毎日3時間以上、長い時は一日中何らかの音楽を聞いています。
ここはゆる体操や達人調整を中心とした、運動科学の情報を扱うサイトですが、運動科学は本質力を扱う分野の学問と実践の体系ですので、もちろん音楽に関してもアプローチが可能です。
ソ連時代の演奏家、作曲家は優れた人がたくさんいますが、今回はその中でも間違いなく最高峰の一人と言える指揮者、エフゲニー・アレクサンドロビッチ・ムラヴィンスキー(Евге́ний Алекса́ндрович Мрави́нский)の録音から、クラシック音楽界の歴史上あらゆる意味で「奇跡」と言って良いムラヴィンスキー指揮 レニングラードフィルによる「チャイコフスキー 交響曲5番」を身体意識や身体操法といった運動科学の見地から取り上げてみたいと思います。
私はチャイコフスキーの交響曲第5番は長い間なかなか好きになれないでいました。というのはこの曲はある主題(この曲では全曲に渡って使用され、チャイコフスキー本人の発言等から「運命の主題」とも呼ばれる)が各楽章に何度か現れるのですが、特に終楽章での使い方が私にはやや冗長に感じられ、聴き疲れを起こしてしまう曲だったからです。

運命の主題(第1主題)(上記音源冒頭)
ですからこの動機をどのように処理するか、楽章ごとに雰囲気のちがう使われ方をしますから、どのように違いをだし、しかも統一感をもたせるか、が大事だと思うのですが、自分はそこに満足する演奏に出会ったことがなかったのです。
私は、曲の構成力やオーケストレーションでいうと、チャイコフスキーを偉大な作曲家同士で比較すれば最高レベルとは言えないと思います。オーケストレーションにはそれぞれの楽器の個性を感じ取る感性と、それをまとめ上げる知性とバランス感覚が必要です。
つまり身体意識でいうと知性を司る上丹田や身体の中心であるセンターが発達していないと、特に大編成のオーケストラなどは手に負えません。
チャイコフスキーは歴史に残る作曲家同士で比較すればセンターや上丹田がものすごく発達している方(例えばバッハ、ベートーヴェンや少し後の時代のラヴェルなどと比較して)ではないと私は思っています。
そう言う意味ではこの曲は高度にバランスが取れている、とは言い難い部分があります。
ですから、逆にこの曲をまとめるのはかなりのセンターや上丹田が必要になるのでは、と思っていました。
そんな私の不満をまさに一撃で吹っ飛ばしたのが1960年代にムラヴィンスキーとレニングラードフィルがドイツグラモフォンから録音したこの名盤です。
一撃というのは決して大袈裟な表現ではなく、本当に最初の一音から他の演奏家の出す音とは全く違うのです。
そういう事がなぜあり得るのかというと、それは身体意識のレベルで違うからです。圧倒的な身体意識を持つ人物の仕事とはそういうものです。
まずムラヴィンスキーは圧倒的に「立てている」人です。「立つ」ということが出来ている人なのです。身体意識でいうとセンターがあるのです。
彼のセンターは視覚的にもわかりやすいものです。特にわかりやすい動画を選んでみましたので、左側の曲は別の曲ですがご覧になってみると良いでしょう。
チャイコフスキーの交響曲第5番曲は先ほどの「運命の主題」から始まりますが、ムラヴィンスキーの演奏はもういきなりセンターが大地と繋がっていて、大地の底から湧き上がってくるような(こういった表現は録音が最初に発売された当時の批評でもあったそうですが)、何か独特の雰囲気があります。
ここで身体意識について、詳しい知識が無い方のために少しご説明します。
人間の運動は実際の運動より前に必ず意識レベルで運動がおこります。それが顕在的に「何かをしよう」という意志を持って行われるものもあれば、無意識・顕在意識下で行われるものもあります。
そういった顕在意識でない、特に潜在意識には身体の体性感覚を中心に出来上がっている系があって、それを身体意識と言います。
身体意識には形状(=ストラクチャー)、運動性(=モビリティ)、質性(=クオリティ)という3つの要素があり、「センターが大地と繋がっていて」という表現は、ムラヴィンスキーの潜在意識下で、身体の中心である軸(=センター)が形成されていて、そのセンターのストラクチャーとクオリティがそうなのであろう、という話です。
ムラヴィンスキーにとっては当然のことなのでしょうけど、ロシアの風土を知らない人間にとっては「ああ、ロシアとはこういうものなのか・・・」と思わせてしまう深みと、それを音楽で表現し切るムラヴィンスキーの凄みを感じさせてくれる演奏です。
ロシアの作曲家は、チャイコフスキーにしてもラフマニノフにしても、まさにロシアの大地を感じさせる曲を書く人が多いのですが、では、実際にそれを感じさせる演奏があるかというと、これはロシア出身の演奏家でもなかなか無い事なのです。
ある程度は感じさせる、という人はロシア出身の演奏家にはたくさんいます。
しかしこの交響曲5番の1楽章のようなロシアの大地全開の曲を、ロシアの大地全開の音で鳴らす事ができる演奏家はなかなかいません。
大地の奥深いところから立ち上がってくるセンター。しかもそれが大地を感じさせるクオリティになっているのです。それは例えばカラヤンの演奏と比べてみるとよくわかります。
まず、カラヤンの方がムラヴィンスキーよりゆっくりしたテンポです。しかしカラヤンのほうはテンポ云々以前に緊張感に乏しく、やや間延びした感じを与えます。
この演奏に関してはカラヤンのほうがセンターのストラクチャーが弱いでしょうか。
次の主題が始まる部分もムラヴィンスキーの方がセンターの上下のモビリティが強く、レニングラードフィルもそれにしっかりと答えています。
ちなみにカラヤンに関しては高岡先生が冊子で身体意識を発表していますが、ものすごい身体意識をしています。
ですが、この曲に求められるものをこの時点で表現しているか、という点で言うとムラヴィンスキーがカラヤンを圧倒していると思います(ちなみに私はカラヤンのファンといって良いと思います)。
次に第2主題をご覧ください。

第2主題
このリズムは行進を感じさせますね。4楽章では一般に運命の主題が勝利への行進のイメージで使用されるのですが、1楽章の第2主題の行進は葬送行進曲のように思います。ムラヴィンスキーの演奏はそれが地芯(地球の重力中心が身体意識化された概念)に乗れているのですから説得力があり素晴らしいのです。
動物はそもそも地芯を感知してバランスをとりつづける、ということが出来ないと、歩くという行為が出来ないものですが、運動科学の考えでは「どれぐらい正確に乗れているか」、が重要になります。現代人の普通の人はかなり大雑把なので、「乗れている」とは言わないのです。
もし歩く事以外(音楽でも絵画でも何でも良いのですが)で「歩く」という運動を表現しようとすると、地芯に乗れている精度が重要になります。ムラヴィンスキーもレニングラードフィルの団員も演奏中は歩いていないのですから、地芯に乗れている精度が高い方が「歩く」という運動をより表現できるようになります。
と、いうよりも実際のところ、ムラヴィンスキーのこの演奏のこの部分のテンポで歩く事は不自然なのですが、それでも歩くという事を感じさせるのはまさに身体意識の作用です。
ですから仮に作曲家が「歩くように」と指定しても、それが実際に歩くテンポなのかどうかは考察が必要です。
この部分に関してはカラヤンの方は明らかにメロディを聴かせようとして、より流麗で流れるような表現になっているので、すこし矛盾を感じるのです。ざっくり言ってカラヤンはレガートのひとですが、ここではそれが裏目に出ている気がします。音にも芯がないので、すこし緊張感がたりません。
ちなみにカラヤンは肩包面という、肋骨と肩甲骨を分離させる身体意識がかなり強く、音を滑らかに、しかも漂わせる事に関しては屈指の指揮者です。実際の指揮の風景も脇が大きく開いていて、スタイルもムラヴィンスキーとは全く違います。
知り合いが、「カラヤンは時々上滑りしている感じがするね」と言っていましたが、肩包面が強いので上滑りすることに関しては誰よりも上手いのです。ですからそのような表現が必要な部分では素晴らしい演奏をします。上滑りという言葉はマイナスイメージですが、この場合「上で滑っている」のは肋骨の上で滑っている「肩包面」なのです。ですから上滑りしたい時は上滑り出来るのです。
こういった事を考慮しても、この録音の時のカラヤンはどちらにせよ本領発揮という感じでは無かったのかもしれません。
4楽章が勝利の行進、または勝利への行進だとすれば、ここはやはり葬送行進曲風の方がより辻褄が合います。そして、ムラヴィンスキーの演奏は、私にとってはこれが葬送行進曲だとしか思えないような「乗り」になっているのです。この矛盾のない自然な解釈と矛盾の無い演奏、まさにセンターのモビリティと上丹田を中心とした優れた身体意識の成せる技でしょう
またワルツ(6/8拍子ですが、ワルツですよね)の部分の旋律の弦のうねりといい、全体を通してピアニッシモからフォルテッシモまでのダイナミックレンジが大きく、表情が豊かです。最初の第2主題やワルツのあたりを聞いていると中丹田に込み上げてくるような美しさがあります。大地から込み上げてきたセンターのクオリティとモビリティが中丹田を刺激するのです。

第3主題(主題の数え方は色々な解釈があります)
ムラヴィンスキーは中丹田もかなり強いです。しかし上丹田とセンター(そしておそらく下丹田にも)にコントロールされているので、爆発すべきところでしか爆発しません。この差がダイナミックレンジの大きさに現れているような気がします。
つまりチャイコフスキーの交響曲5番とはムラヴィンスキーの演奏で表現されるような曲だったのだと初めてこの演奏を聞いた時、私は思いました。
メロディの表情といい、リズムといい、ダイナミクスといい、このように演奏されないと、この曲の本当の良さは出ません。
私がこの曲をあまり好きでなかった、というのはこの曲の身体意識を理解していなかった、という事なのでしょう。
ではムラヴィンスキーがこの曲を身体意識レベルで表現できているとして、実際に演奏しているのはレニングラードフィルハーモニー管弦楽団です。そこはどう考えれば良いでしょうか。
指揮者は曲の身体意識を理解し、オーケストラをコントロールするのが仕事です。色々なやり方があるでしょうが、ムラヴィンスキーは特に軸(=センター)でコントロールするタイプの指揮者ですね。
わかりやすい例で言えばスーパーウォーク歩道の「リード軸」のワークで指導者が生徒の軸をつかんで引っ張ることで身体が勝手に移動する、というワークがあるのですが、これは身体意識で身体意識を操作する基本的な現象をメソッド化したものです。
それと同じようにムラヴィンスキーは自身のセンターで楽団員にむかって同じことを(無意識に)やっているのです。楽団員は皆優秀なプロですから、潜在意識下で出された身体意識レベルの指示を身体意識レベルで表現することは可能でしょう。
この音源ではムラヴィンスキーの要求に楽団も非常によく答えていると思います。
またこのような素晴らしい演奏を録音技術のすぐれたドイツグラモフォンに残してくれていること自体がほとんど奇跡的です。
ムラヴィンスキーは1960年9月から11月にかけてヨーロッパツアーを行いましたが、なんとツアーの合間をぬってロンドンとウィーンでチャイコフスキーの交響曲4番から6番の録音を行ったのです。
実はこれ以前にムラヴィンスキーとレニングラードフィルはドイツグラモフォン社に同曲をモノラルで録音していました。グラモフォン社としてはどうしてもステレオで録音したかったのでしょう。
まさに執念ですね。やはり素晴らしいものに対する敬意は国やイデオロギーを超えて伝わるものなのですね。
この録音を聴いてみてわかりますが、基本的な録音技術はもうすでにこの頃に完成されていたのでしょう。ですから私たちは最高の臨場感で1960年の演奏を、まさに時空を超えて聴くことができるのです。
ここで録音の良し悪しついて少し触れておきます。基本的な考え方として録音はよいほうが良いに決まっています。しかし古い録音で雑音の方が多いぐらいのものでも、その奥から伝わってくるものがある、そういう音源があるのは事実です。音楽が好きな人には録音には拘らない人が多いようですが、結局のところ悪い録音でも伝わってくるもの、とは何が伝わっているのかというと身体意識が伝わっているのです。
人は無意識で身体意識を察するものですが、その身体意識が素晴らしいものであればあるほど、その時必要な情報と必要でない情報は無意識に取捨選択します。結果的に演奏者の身体意識のみを受け取るので録音が悪かろうが関係ないのです。
しかし、もちろん録音エンジニアにも身体意識はあります。ですから、身体意識という概念や言葉を知らなくても、良いエンジニアはまず演奏家の身体意識を伝えようとします。逆にいうとそれが良いエンジニアだと私は思います。そしてその二方が同じ方向を向いた時、素晴らしい名盤が生まれます。
クラシック音楽の場合は作曲家もいますから、もし三者が同じ方向を向いた時、歴史に残るような超絶的な名盤が生まれるのです。
しかしこれは滅多に生まれることではありません。そういうことはまさに奇跡なのです。そしてその数少ない一つがこの録音なのです。
ムラヴィンスキーはピアニッシモの部分の消え入るような音を、会場の残響を使って余韻を響かせることでも表現していますが、しっかりその残響をエンジニアは拾っています。そもそもこの録音は、今聞いても64年前のものだとは思えないぐらい素晴らしいものです。
そういった意味で私は、ムラヴィンスキーとレニングラードフィルのチャイコフスキー交響曲5番は奇跡的な名盤だと思っています。
私は同じ録音で違うマスタリングのLPを二種類持っています。エンジニアの演奏に対する志向はそれぞれ違うものがありますが、どちらもが演奏に対して真摯に向き合っているマスタリングだと感じます。
この音源は指揮者、オーケストラ、エンジニア、そしておそらくチャイコフスキーが指向したであろう演奏の方向性が同じ向きに向いている稀有な演奏です。しかも当時の難しい政治情勢の中、ソ連の指揮者と楽団が、西ヨーロッパで西ヨーロッパの企業によって録音をしたという、まさに奇跡的な超名盤です。
私はチャイコフスキーの交響曲第5番の他の良いと言われる演奏を聞いても、またこのムラヴィンスキーとレニングラードフィルの演奏に戻ってくるのです。
チャイコフスキーの交響曲第5番を家で聞くなら、
ムラヴィンスキーか無しか
で良いでしょう。
演奏10録音10
- 演奏基準点
- 1〜6 特筆すべき点はないが、個人的に取り上げておきたい演奏
- 7 高く評価されるべき演奏 または演奏以外の部分も含めてエポックメイキングな演奏
- 8 名演 当代随一の演奏
- 9 優れた身体意識に支えられた超名演
- 10 時代を超えて受け継がれていくべき超絶的名演 身体意識・曲の解釈全てがパーフェクト
- 録音
- 1〜6 特筆すべき点のない普通の録音
- 7 優秀録音
- 8 最高ランクの録音
- 9 エンジニアの身体意識が感じられる魂の録音
- 10 音の良し悪しを超えて、エンジニアの魂が演奏者の魂と共鳴する超絶録音
コンサートやLP・CDなどの感想を身体意識を踏まえて書いています
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